國立師範大學 2005年11月17日 戰後日本的雨個中國政策與台灣觀 川島真(北海道大學副教授) shin@juris.hokudai.ac.jp 1.問題意識 日本的脫帝國化/從帝國到國民國家/建立新的外交/跟以前的殖民地建立新的關係 2.先行研究 石井明、别枝行夫、清水麗 陳肇斌『戦後日本の中国政策」(東京大学出版会、2000年),袁克勤『了メ)力上日華講和 一米·日·台関係)構☒」(柏書房、2001年),池田直隆『日米関係上「二○)中国」一 池田·佐藤·田中内閣期』(木鐸社、2004年),田麗莽「池田内閣の中国政策一封心达) 戦略上对中積極論の狭間c」(一·二)(『法学論叢』京都大学、137卷2号·139卷1号、 1995年·1996年),同「佐藤内閣上中国問题一状祝对心型外交、七の意義上限界」(一· 二)(『法学論叢』京都大学、141卷5号·143卷3号、1997年·1998年),佐藤晋「佐 藤政権期)了ヅ了政策」(波多野澄雄福『池田·佐藤政権期の日本外交』(ミ礻儿ヴ了書房、 2004年),神田豐隆「佐藤内關上「二○の中国」-对中·对台湾政策仁书付石バラ又) 模索」(T国際関係論研究』21号、2004年) 石井明「1960年代前半)日台閱係:~周鸿慶事件力反共参謀部設立構想D推進>」(『国際 法外交椎誌』101卷2号、2002年8月)清水麗「1970年代の台湾の外交政策仁闋才石一 考察-外交上内政上中台闋係D相互作用」(『東了ヅ了地域研究』6号、1999年),同「蒋経 国時代初期)对日政策:日台断交花一事例上L℃」(T筑波大学地域研究』、1999年),何思 慎《擺盪在雨岸之間:戰後日本對華政策19451997》(東大圖書公司,1999年),馬樹礼『使日 十二年』(聯柽出版社、1997年),黄自進記绿『林金茎先生訪問配绿』(訪問配绿、中央研究 院近代史研究所、2003年),廖鴻精「貿易與政治:台日間的貿易外交(1950~1961)一以 台湾所藏外交部檔案等為中心之探討)(国立台湾師範大学歴史研究所修士論文、2000年6 月) 3.戰後日本的外交政策與”雨個中國”政策 (1)戰後日本的外交政策 戰後日本的對中國政策是基本上”兩個中國”政策,背後有”政徑分離”的想法 戰後日本的外交,特别在通商方面,不一定追從美國,有時候找英國聯繫的可能性,打算開拓 自己的”市場”.日本的通商政策的核心在(1)儘量保持亞洲的”非戰状熊”,(②)把英國
國立師範大學 2005 年 11 月 17 日 戰後日本的兩個中國政策與台灣觀 川島真(北海道大學副教授) shin@juris.hokudai.ac.jp 1.問題意識 日本的脫帝國化 / 從帝國到國民國家 / 建立新的外交 / 跟以前的殖民地建立新的關係 2.先行研究 石五明、別枝行夫、清水麗 陳肇斌『戦後日本の中国政策』(東京大学出版会、2000 年), 袁克勤『アメリカと日華講和 ―米・日・台関係の構図』(柏書房、2001 年), 池田直隆 『日米関係と「二つの中国」― 池田・佐藤・田中内閣期』(木鐸社、2004 年),田麗萍 「池田内閣の中国政策-封じ込め 戦略と対中積極論の狭間で」(一・二)(『法学論叢』京都大学、137 巻 2 号・139 巻 1 号、 1995 年・1996 年),同 「佐藤内閣と中国問題-状況対応型外交、その意義と限界」(一・ 二)(『法学論叢』京都大学、141 巻 5 号・143 巻 3 号、1997 年・1998 年), 佐藤晋 「佐 藤政権期のアジア政策」(波多野澄雄編『池田・佐藤政権期の日本外交』(ミネルヴァ書房、 2004 年), 神田豊隆 「佐藤内閣と「二つの中国」--対中・対台湾政策におけるバランスの 模索」(『国際関係論研究』 21 号、2004 年) 石五明「1960 年代前半の日台関係--周鴻慶事件から反共参謀部設立構想の推進へ」(『国際 法外交雑誌』101 巻 2 号、2002 年 8 月), 清水麗「1970 年代の台湾の外交政策に関する一 考察--外交と内政と中台関係の相互作用」(『東アジア地域研究』6 号、1999 年),同「蒋経 国時代初期の対日政策:日台断交を一事例として」(『筑波大学地域研究』、1999 年),何思 慎《擺盪在兩岸之間: 戰後日本對華政策 1945-1997》(東大圖書公司,1999 年),馬樹礼『使日 十二年』(聯経出版社、1997 年),黄自進記録『林金茎先生訪問記録』(訪問記録、中央研究 院近代史研究所、2003 年),廖鴻綺「貿易與政治:台日間的貿易外交(1950~1961)―以 台湾所蔵外交部檔案等為中心之探討」(国立台湾師範大学歴史研究所修士論文、2000 年 6 月) 3.戰後日本的外交政策與”兩個中國”政策 (1)戰後日本的外交政策 戰後日本的對中國政策是基本上”兩個中國”政策, 背後有”政經分離”的想法. 戰後日本的外交, 特別在通商方面, 不一定追從美國, 有時候找英國聯繫的可能性, 打算開拓 自己的”市場”. 日本的通商政策的核心在 (1)儘量保持亞洲的”非戰狀態”, (2) 把英國
撤退”以後的東南亞市場成為自己的市場化,(3)盡力把兩個中國都成為自己的市場化.(④)為了 市場的發展或資本主義化,願意袷亞洲國家經清援助.日本的戰後處理也在這些方針之下進 行的1[1。 (2)兩個中國政策與台灣 日本一方面配定中華民國政府為正統的中央政府,但是另一方面認定中華人民共和國為通 商的對象.吉田茂認為中國大陸的社會主義不是真正的社會主義,還認為中蘇關係不一定那 麽安定的,所以如果繼續做貿易,保持經濟關係的話,中國大陸一定就離開社會主義而成為日 本的市場.…雖然日本認為中華民國就是”中國”政府,但是外務省的不少官僚認為台满可能 變成台灣人的”台灣,”中華民國将來一定面對很大的困境 4.日本的”兩個中國”畿政 (1)1950年代初期吉田茂内閣 [政策]建立跟中華民國的外交關係,但是限制”日華條約(1952年4月)”的適用範圍,摸 索在上海開貿易事務所. [兩個中國的意思)中國承認問題.“日本承認那一個中國,”就是兩個中國問題.吉田首 相本人沒有用過”雨個中國”的說法 (2)1954年12月-1956年12月鳩山一郎内閣 [政策]繼承吉田的對美政策,但主唱採用對共產圈的融合政策,要袺束戰争状態 [兩個中國的意思]首相本人用過”雨個中國’的說法,可認定雨個中國的存在.但是這樣 的認藏不會成為兩個中國的”政府承認”之政策 1955年4月第三次日中民間貿易協定代表團來日(代表雷任民對外貿易部副部長) 1955年3月25日參義院的言論2[2] 鳩山ソ連中中共上国交調整花L℃V、老大V上V、)希望花持∽二上亦ビ)L℃恶八Dc L上)。ソ連中共上国交調整L松↓C戦争状態終袺未確定)事熊仁置<上V、)二上仗、 老力的℃危除尤上思))C)主寸。…(中略)ソ連中中共匕国交調整花寸心老二上仕私 仕当然℃西石上考之℃方石D℃)主寸 重光中共貿易住、今日)問題仕中共地区上日本匕D間仁℃国際闋係上c老得石貿易 花℃老石付進的大↓上、)二上仁埽着寸石)℃海)主L℃二九住日本)今日D释济状熊 見当然D仕事℃)、?标付九任在6炊二上上考之℃進的℃方石力付c二艾v主 寸…口口厶D二上C主寸、名口4D範田花少L℃电店于得石上)二上住、 九住乃人非常忆二与bC有利c二v主寸。名二C口口厶D内部忆℃二D方面忆 ℃老得石上)仁各国上D接触花V大L℃书)主L℃、出先C住C老石E付D努力花夫L (书)主寸. 1[1]宫城大藏『戦後了ヅ了秩序0模索上日本:「海0了了」)戦後史1957~1966』(創文社、 2004年)参照。 2[2]1955年3月25日、参議院本会議議事绿
撤退”以後的東南亞市場成為自己的市場化, (3)盡力把兩個中國都成為自己的市場化. (4)為了 市場的發展或資本主義化, 願意給亞洲國家經濟援助. 日本的戰後處理也在這些方針之下進 行的1[1]。 (2) 兩個中國政策與台灣 日本一方面認定中華民國政府為正統的中央政府, 但是另一方面認定中華人民共和國為通 商的對象. 吉田茂認為中國大陸的社會主義不是真正的社會主義, 還認為中蘇關係不一定那 麼安定的, 所以如果繼續做貿易,保持經濟關係的話, 中國大陸一定就離開社會主義而成為日 本的市場. …雖然日本認為中華民國就是”中國”政府, 但是外務省的不尐官僚認為台灣可能 變成台灣人的”台灣,” 中華民國將來一定面對很大的困境. 4. 日本的”兩個中國”議政 (1)1950 年代初期 吉田茂內閣 [政策] 建立跟中華民國的外交關係, 但是限制”日華條約(1952 年 4 月)”的適用範圍, 摸 索在上海開貿易事務所. [兩個中國的意思] 中國承認問題. “日本承認那一個中國,” 就是兩個中國問題. 吉田首 相本人沒有用過”兩個中國”的說法. (2)1954 年 12 月-1956 年 12 月 鳩山一郎內閣 [政策] 繼承吉田的對美政策, 但主唱採用對共產圈的融合政策, 要結束戰爭狀態. [兩個中國的意思] 首相本人用過”兩個中國’的說法, 可認定兩個中國的存在. 但是這樣 的認識不會成為兩個中國的”政府承認”之政策 1955 年 4 月 第三次日中民間貿易協定代表團來日(代表 雷任民 對外貿易部副部長) 1955 年 3 月 25 日 參議院的言論2[2] 鳩山 ソ 連や中共と国交調整をしていきたいという希望を持つことがどうして悪いので しょうか。ソ連や中共と国交調整しないで戦争状態終結未確定の事態に置くという ことは、 きわめて危険だと思うのであります。…(中略)ソ連や中共と国交調整をすべきことは私 は当然であると考えておるのであります 重光 中共貿易は、今日の問題は中共地区と日本との間において国際関係上でき得る貿易 をできるだけ進めたいということに帰着するのでありましてこれは日本の今日の経済状態 から見て当然の仕事であり、やらなければならぬことと考えて進めておるわけでございま す…ココムのことでございますが、そのココムの範囲を尐しでも広げ得るということは、 これはむろん非常にこちらに有利でございます。そこでココムの内部においてこの方面に でき得るように各国との接触をいたしておりまして、出先ではできるだけの努力をいたし ております. 1[1] 宮城大蔵『戦後アジア秩序の模索と日本 : 「海のアジア」の戦後史 1957~1966』(創文社、 2004 年)参照。 2[2] 1955 年 3 月 25 日、参議院本会議議事録
佐多忠隆台湾問題!二对才石米英D意見D食v違V、態度D相違間仁介在L(力 苏日本仕上九意見花持古、熊度花上石心老龙上鳩山稔理住考之℃书6九可。)℃鳩 山稔理仕二∽)中国D存在花韶的扣试:欢上言明花达九主L大、名D考之仕名)後上 )v、)苏)仁凳展这世九大D办、二九在绿和花L大。 鳩山 特仁私2∽V℃の質問上LC住、私於办∽℃二∽D中国上V、)上)东言 葉在使∽大考之方花今屯左持∽(书石办上)上)松扫話℃两)主L大、二机住空住 )事夷住認的左 鳩山中共住承認在寸百二上)℃老标八大)众事熊)主才の℃、承認住C老尔<℃ 屯、戦争状熊終结在確認寸石事態花作)上伊石上↓)国交)正常化仕c老石住℃寸。 承認問題左取)除℃。老)V)女)众事熊花作)上于石の亿)L大6VV上V之成、 貿易闋係左緊密亿L℃互仁貿易仁热心亿标∽℃∽老合)上)亿标九任、戦争状熊住終 结L大上)事熊二二亿作)上伊6九℃<百DC)主寸6、无)八)二上亿<任 )V尤乃)上v、)上标考之在屯∽℃、ソ連中中共D℃上老自由主義国家群D中忆入 九标国c屯仲上<(Φ<二上亿努力L标付九任付上)考之方花屯∽℃v大 力付℃态9主寸55]l。…(中華人民共和国D承認仁∽V℃)世界仕非常二变)○∽志)主 3[31955年3月26日、聚議院予算委員会議事绿 44]1955年3月31日、架議院外務委員会議事绿 551955年12月9日、参議院予算委員会議事绿
佐多忠隆 台湾問題に対する米英の意見の食い違い、態度の相違の間に介在してわ が日本はどん な意見を持ち、態度をとるべきだと鳩山総理は考えておられるか。かって鳩 山総理は二つの中国の存在を認めねばならぬと言明をされましたが、その考えはその 後ど ういうふうに発展させられたのか、これをお尋ねをしたい。 鳩山 特に私についての質問としては、私がかって二つの中国というような言 葉を使った考え方を今もなお持っておるかというようなお話でありましたが、これはやは り事実は認めなくちゃなりませんから、二つの中国という考え方で解決をしていく方が適 当だと思っております。 鳩山在別的委員會上發言說; 現在国民政府があり、現在中共があるということは歴 史的の事実でありますから、両方がけんかをしないようにしてもらいたいと思っておるの であります。一方中共という事実あるものを認めないわけにいかなでしょうし、むろん国 民政府はあるのでありますから、両方、二つの中国を認めるということはやむを得ない事 実だと思っておるのであります3[3]。 重山外相的發言; 今 わが国は台湾の国民政府を承認しておることは御承知の通りでありま す。それでありますから、今中共政府を中国政府として承認する、これは条約上の問題に な り、むしろ法律問題でありますので、さようなことを今すぐきめる時期には来ておらぬ と思います。しかしながら、中共が事実上支那大陸において強大な権力、 地域を設定して おることは事実でございます。でありますから、その事実を無視するわけには参りません。 従いましてその地域との貿易関係等を増進する ことはやり得ることで、いいことだろうと 思います。さようなことにして漸次正常関係を設定するように進めていくこともいいこと だろうと思います。しかし、 そういうようなことがいかに法律的に、条約的に実を結ぶか ということは、世界の一般形勢に順応しなければなりませんので、その形勢の変化を待っ ておもむろに考慮していい問題だろう、こう考えます4[4]。 . 鳩山 中共は承認をすることのできないような事態がありますので、承認はできなくて も、 戦 争状態終結を確認する事態を作り上げるという国交の正常化はできるはずです。 承認問題を取り除いて。そういうような事態を作り上げるのにどうしたらいいか といえば、 貿易関係を緊密にしてお互いに貿易に熱心になってつき合うようになれば、戦争状態は終 結したという事態がここに作り上げられてくるのであります から、そういうことにいくほ うがいいだろうというような考えをもって、ソ連や中共のごとき自由主義国家群の中に入 れない国でも仲よくしてゆくことに努力し なければいけないという考え方をもっていた わけであります5[5]。… (中華人民共和国の承認について)世界は非常に変りつつありま 3[3] 1955 年 3 月 26 日、衆議院予算委員会議事録 4[4] 1955 年 3 月 31 日、衆議院外務委員会議事録 5[5] 1955 年 12 月 9 日、参議院予算委員会議事録
寸。二D变遷花十分仁注意L(、日本上L℃仕注意深 蒋介石氏、)队仁報百仁德花屯∽℃寸石上V)、一切D戰争中仁付石日本0行動 汇对℃、力九力九仕宽大众如置左∽C的石之v、宣言左、名九)↓(国民政府 上D間仁国交正常化寸石上V、)沿革花上∽℃老大二上仕、御承知D通)C)主寸.…私 ビ名仕、二)沿革上二D事美花全然無視L℃一∽)理論花立℃石上v、)二上仕、二九仕非 常仁現美私仕離九石毛DC志百上思主才。従∽℃、二D事夷住、石V仕一心二D 二○)中国上、)現夷D左亿言∽(二○)中国巴中标办上V、)理論电C老…問題左 ビ)解決寸石办上、)問題仕、中国自体解决寸心老中国内政問题℃石、解决志九大 二上E上2(左比L(<上、5二上屯一OD考之方℃西)主L上2…日本、直与亿中 国政府、中国人民共和政府上、)毛)花認的石上、可仕国際連合加入花認的百上 八)二上亿标石标6成、一体国民政府自身安保理事会D常任理事国℃∽℃、九D大 心一亿东∽℃书石、名九在之石上↓、)二上於二D国際連合仁加盟L℃书石多数D国) 意向℃石上)上、)上)东点泸全然主龙未解決D状熊℃、解決の方向寸6∽V℃扫 标V状况仁私仕石上思ま寸…結論上L℃仕、今D上二乃仁书V℃仕、ま)V、 政治的标闋係左開<心老C标L仁、貿易无D他関係仁书℃仕二九花增進L℃V、<心老 ℃石、二)思∽℃书石力付℃两)主才88l。 661956年3月8日、参議院予算委員会議事绿 77]戰後日本的保守派擁有對“以德報怨'的”感謝論”,可參考若宫啓文『戦後保守D了ヅ了 観』朝日選書541](朝日新聞社、1995年),賀屋興宣D『戰前·戰後八十年』(释济往来社、 1976年),林金莖『梅上楼-戦後D日華闋係』(少ヶ出版、1984年)。 88]1957年8月1日、参議院外務委員会議事绿
す。この変遷を十分に注意して、日本としては注意深く変遷を見なければなりません。先 のこと も考えなければなりません。しかしながら今それならば従来の日本のとっておる道 をすっかり変えていくということは、日本の利益であるか、得策であるか、こ う考えると いうと、これはそうすべきでないという判断をはっきり持って進んでおることはたびたび 申し上げておる通りであります6[6]。 (3) 1957 年 12 月-1960 年 7 月 岸信介內閣 [政策] 支持推動擴大跟中國大陸的貿易, 沒有否認”兩個中國”論的可能性, 但是另一方面 強調日本承認中華民國的事實(強調所謂的”以德報怨”)7[7]. 美國圍繞中國參加紅十字開羅 總會問題, 美國也好像採用”兩個中國”政策, 但是日本卻對中國大陸的態度改為更強硬的政 策. [兩個中國的意思]這段時期, 中華民國和中華人民共和國都反對各國的”兩個中國”政策, 所以”兩個中國”變為反中共的意思. 中華人民共和國政府指責日本政府有建立兩個中國的政 策. 蒋介石氏が、うらみに報いるに徳をもってするという、一切の戦争中における日本の行動 に対しても、われわれは寛大な処置をもってやるという宣言をし、それがひいて国民政府 との間に国交を正常化するという沿革をとってきたことは、御承知の通りであります. …私 どもは、この沿革とこの事実を全然無視して一つの理論を立てるということは、これは非 常に現実から私は離れるものであると思います。従って、この事実は、あるいは一応この 二つの中国という現実のなにから言って二つの中国じゃないかという理論もでき…問題を どう解決するかという問題は、中国自体が解決すべき中国の内政問題である、解決された ことによってなにしていくということも一つの考え方でありましょう…日 本が、直ちに中 国政府、中国人民共和政府というものを認めるとか、あるいは国際連合が加入を認めると いうことになるならば、一体国民政府自身が安保理事会 の常任理事国であって、それのメ ンバーになっておる、それをかえるということがこの国際連合に加盟しておる多数の国の 意向であるかどうかというような点が 全然まだ未解決の状態で、解決の方向すらついてお らない状況に私はあると思います…結論としては、今のところにおいては、まだそういう 政治的な関係を開くべきでなしに、貿易その他の関係においてはこれを増進していくべき である、こう思っておるわけであります8[8]。 6[6] 1956 年 3 月 8 日、参議院予算委員会議事録 7[7] 戰後日本的保守派擁有對“以德報怨’的”感謝論”, 可參考若宮啓文『戦後保守のアジア 観』[朝日選書 541](朝日新聞社、1995 年), 賀屋興宣の『戦前・戦後八十年』(経済往来社、 1976 年), 林金莖『梅と桜-戦後の日華関係』(サンケイ出版、1984 年)。 8[8] 1957 年 8 月 1 日、参議院外務委員会議事録
1957年岸首相訪問台灣會晤蒋介石總統 1958年田中角榮(郵政大臣)推動東京跟北京之間的99] 1958年3月5日第四次日中貿易協定 1958年5月2日長旗國旗事件 1958年6月按照第四次日中貿易協定,國内開始討論 (1) 兩國給對方代表部人員提供出入國的便宜.通關的優待.和承認作為個貿易活動的內國 旅遊 (2) 代表部可以用業務上需要的密碼通信 (3) 代表部可以掛自己的國旗 1958年8月23日823戰役 (4)1960年7月-1964年11月池田勇人内閣 [政策】池田支持推動擴大跟中國大陸的貿易,他說”我就是擴大貿易和再開貿易的第一人者” 10[10l.日本採用積極的中國貿易擴大政策,.可重視1962年的日中覺書貿易協定和LT貿易的 開始.這個協定的出現,可以說日本的”兩個中國”政策已到很實際的地步了. [兩個中國的意思]周恩來對日本提出”對日三原則11[11]”:(1)日本不可敵視中國.(2)不可参 與美國創造的”兩個中國’陰謀政策.(3)不可妨害中日兩國關係的正常化.兩個中國論算是 反中共.反國府的想法. 國會上不少議員指出1962年的日中覺書貿易協定就是日本政府認定兩個中國的證據,但是池 田絕對不會用”兩個中國”四個字來回答.池田認為承認問題可能在聯合國討論,日本不要干 預承認和代表權問題. 那時候的美國,摸索”兩個中國(先de facto地承認中華人民共和國).日本外務 省的基本上有跟著美國的政策12[12引. 私住中国上↓、))花一O仁今見C书石のC二这主寸。名L(古6D頜土仁∽<上V八 ))C住标L仁于ヤ亻十D頜土℃石上v、)二上D考之方c私住言∽℃书石)C)主寸 13[13 9[91958年2月28日、参議院通信委員会議事绿 10[10]1961年1月30日、来議院本会議議事绿 11[11]1960年8月27日、「周恩来中国首相D对日貿易3原則仁関寸石談話」(『日本外交主要 文書·年表」(1)(1041-1042頁、1960年9月13日、『人民日報」亿屯揭裁) 12[12]1961年3月24日作成、「張公使上了局長上D会談」(日本外務省保存記绿、2002年12 月公開分、0120一2001-00974) 13[131961年3月4日、衆議院予算委員会議事绿
1957 年 岸首相訪問台灣會晤蔣介石總統 1958 年 田中角榮(郵政大臣)推動東京跟北京之間的9[9] 1958 年 3 月 5 日 第四次日中貿易協定 1958 年 5 月 2 日 長旗國旗事件 1958 年 6 月 按照第四次日中貿易協定, 國內開始討論 (1) 兩國給對方代表部人員提供出入國的便宜.通關的優待.和承認作為個貿易活動的內國 旅遊 (2) 代表部可以用業務上需要的密碼通信 (3) 代表部可以掛自己的國旗 1958 年 8 月 23 日 823 戰役 (4)1960 年 7 月-1964 年 11 月 池田勇人內閣 [政策] 池田支持推動擴大跟中國大陸的貿易, 他說”我就是擴大貿易和再開貿易的第一人者” 10[10]. 日本採用積極的中國貿易擴大政策,.可重視 1962 年的日中覺書貿易協定和 LT 貿易的 開始. 這個協定的出現, 可以說日本的”兩個中國”政策已到很實際的地步了. [兩個中國的意思]周恩來對日本提出”對日三原則11[11]”: (1)日本不可敵視中國.(2)不可參 與美國創造的”兩個中國’陰謀政策.(3)不可妨害中日兩國關係的正常化. 兩個中國論算是 反中共.反國府的想法. 國會上不尐議員指出 1962 年的日中覺書貿易協定就是日本政府認定兩個中國的證據, 但是池 田絕對不會用”兩個中國”四個字來回答. 池田認為承認問題可能在聯合國討論, 日本不要干 預承認和代表權問題. 那時候的美國, 摸索”兩個中國(先 de facto 地承認中華人民共和國). 日本外務 省的基本上有跟著美國的政策12[12]. 私は中国というものを一つに今見ておるのでございます。そしてどちらの領土につくとい うのではなしにチャイナの領土であるということの考え方で私は言っておるのであります 13[13] 9[9] 1958 年 2 月 28 日、参議院逓信委員会議事録 10[10] 1961 年 1 月 30 日、衆議院本会議議事録 11[11] 1960 年 8 月 27 日、「周恩来中国首相の対日貿易3原則に関する談話」(『日本外交主要 文書・年表』(1)(1041-1042 頁、1960 年 9 月 13 日、『人民日報』にも掲載) 12[12] 1961 年 3 月 24 日作成、「張公使とア局長との会談」(日本外務省保存記録、2002 年 12 月公開分、0120-2001-00974) 13[13] 1961 年 3 月 4 日、衆議院予算委員会議事録
二O)中国仁∽老主L℃仗、中華民国西石仕中共政榷屯艳对反对匕言∽℃方石℃住二 八主世人。力九初九、第三国二人左問题℃結論花出寸上、)二上住、私住、外交 上下手标农)方C、中石心圭c标v上考之℃书)主寸1414 1962年9月 松村兼三(自民英随問)訪問北京會晤周恩來 1962年11月9日日中覺書貿易協定(準政府之間協定) 廖承志(華僑事務委員會主任)高碕達之助(原通產大臣) LT貿易協定,决定互相開殷貿易事務所 1963年10月周鸿慶事發生 1963年11月外務省國際資料部長(至急/極機密) 国府上L℃住日本花 有關反攻大陸,「替否在問力九大場合、反对世这石在得… 有關貿易事務所,日本已經準備對中華民國說明事務所的規模.人員.身分等,很具體 的内容16[16l。 1964年2月21日到28日吉田茂訪台 蒋介石對吉田說最近国際間{仁中共花援助L、強化寸石二上仁大)、ソ連上離間世 L的(自由陣营側仁抱老达主人上才石考之方石、二九仕間違∽℃石。↓主二无中 共D潰减在計石心老艳好)時期℃志石 日本外務省中國課的台灣觀 二D上)在準戦時体制花L、同政府书上U同政府上共亿大陸6渡来L大250万上称世6 九石人口仁对L、台湾出身℃全人口狗1100万の内850万花占的石艳对多数の台湾人の存在 态)、二D面者D利害仕必于L毛一致L得公↓美情仁石。行政当局D責任石地位仁 屯台湾人仕極少数採用这九℃v、石仁過老扩、政治释済上)凳言榷仕殆封心九大恰好C 14[141961年9月29日、来議院本会議議事绿 15[151963年11月6日作成(日本外務省保存記绿2002年12月公開分0120-2001-00974) 16161964年1月17日作成、「中華民国政府上話合)心老事项(凳言要旨案)」(了y了局長作 成、日本外務省保存記绿、2002年12月公開分、0120-2001-01331)
二つの中国につきましては、中華民国もあるいは中共政権も絶対反対と言っておるではご ざいませんか。われわれが、第三国がこんな問題で結論を出すということは、私は、外交 上下手なやり方で、やるべきでないと考えております14[14] 1962 年 9 月 松村謙三(自民黨顧問)訪問北京會晤周恩來 1962 年 11 月 9 日 日中覺書貿易協定(準政府之間協定) 廖承志(華僑事務委員會主任) 高碕達之助(原通產大臣) LT 貿易協定, 決定互相開設貿易事務所 1963 年 10 月 周鴻慶事發生 1963 年 11 月 外務省國際資料部長(至急 / 極機密) 国府としては日本をあくまでつかまえとおこうとする、(中略)その手にはのらないで 敬遠しておくことが必要である。国府との関係を徐々に疎遠化しておく必要とはこのこと である…統治されている台湾人は国府人と全く異なつた考えを持っていることを忘れては ならない15[15]。 1964 年 1 月 外務省的文書 有關反攻大陸, 「賛否を問われた場合、反対せざるを得ない」… 有關貿易事務所,日本已經準備對中華民國說明事務所的規模.人員.身分等,很具體 的內容16[16]。 1964 年 2 月 21 日到 28 日 吉田茂訪台 蔣介石對吉田說 最近国際間に中共を援助し、強化することにより、ソ連と離間せ しめて自由陣営側に抱き込まんとする考え方があるが、これは間違っている。いまこそ中 共の潰滅を計るべき絶好の時期である 日本外務省中國課的台灣觀 このような準戦時体制をし、同政府および同政府と共に大陸から渡来した 250 万と称せら れる人口に対し、台湾出身で全人口約 1100 万の内 850 万を占める絶対多数の台湾人の存在 があり、この両者の利害は必ずしも一致し得ない実情 にある。行政当局の責任ある地位に も台湾人は極尐数採用されているに過ぎず、政治経済上の発言権は殆ど封じられた恰好で 14[14] 1961 年 9 月 29 日、衆議院本会議議事録 15[15]1963年 11月 6日作成、(日本外務省保存記録、2002年 12月公開分、0120-2001-00974) 16[16] 1964 年 1 月 17 日作成、「中華民国政府と話合うべき事項(発言要旨案)」(アジア局長作 成、日本外務省保存記録、2002 年 12 月公開分、0120-2001-01331)
石。一方台湾仕、元来力国D五十年仁及分統治仁大)、產業文化高度仁凳達L、飞 D経济上、教育上)水準住相当高 台湾独立運動注1950年頃办6本邦仁乇の本拟花移L、1956年(仁住台湾共和国臨時政府在 粗織L、廖文毅大統頒仁就任L上。…台湾独立運動仕、一時上述D如老盛)上犷)左見世 大、1962年後半以来、廖文毅の指淳性)欠如仁对寸石不满(仁原因L大内部分裂花生心、 1963年の2.28記念行事仕東京花始、各地極℃低調℃方∽大。中国側住台湾独立運 動)一切花藏重仁取)締主石大強(1964年1月,木村駐台北大使) 這個文書特别重視台灣人(本省人)和日本對900萬的台灣人的道義上責任. 今日仁L℃冬D信頼花失)二上茶志九任、我国50年D台湾裗治)夷績水泡仁帰寸石D 队存扩戰後)了ヅ了仁书忖石∽上古親日的足場在失)二上在虞丸石次第。…本省人D 17[17]1963年4月27日、「中華民国0政情{仁V℃」(中国課、日本外務省保存記绿、プ7才 ル管理番号0120-200105162) 18[18]1964年2月18日、「吉岡参事官)台湾事情仁闋寸石脱明」(中国髁、日本外務省保存記 绿、7了儿管理番号0120-2001-01331) 1963年5月1日、「台湾独立運動仁∽℃」(中国髁、日本外務省保存記绿、プブ亻ル管理番号 0120-2001-05162) 2020日本外務省保存記绿、2002年12月公開分、0120一2001一00974
ある。一方台湾は、元来わが国の亓 十年に及ぶ統治により、産業文化が高度に発達し、そ の経済上、教育上の水準は相当高く、台湾出身者は現在でもわが国に対して好感を抱いて いる。これらの事 情から、台湾出身者が自らの郷土の政治に対し、自由な発言権を与えら れることを希望していることは当然であり、また更に進んで独立という考え方を発生した ことは決して不自然なことではなかった17[17]。 (1) 国府としては、台湾人も抱きこみ、民主化に向わざるを得ない事態になりつつある。し かし表面的には未だあまり現れてきていない。台湾には将官が 1800 人 いるといわれてい るが、台湾人の将校は尐佐どまりである。(2)台湾人を国民党員にしようという働きかけは 非常に強い。しかし「党大会」などに出席してみ ると入党した台湾人は決して誇りをもっ てではなく、むしろ已むを得ず入党したのだという説明をしている。18[18]。 台湾独立運動は 1950 年頃から本邦にその本拠を移し、1956 年には台湾共和国臨時政府を 組織し、廖文毅が大統領に就任した。…台湾独立運動は、一時上述の如き盛り上がりを見 せ たが、1962 年後半以来、廖文毅の指導性の欠如に対する不満に原因した内部分裂を生じ、 1963 年の 2.28 記念行事は東京を始め、各地も極めて低調 であった。中国側は台湾独立運 動の一切を厳重に取り締まるよう強く要求しているが、その実質的活動状況は凡そ政治活 動とは称し得ない程度の低調なもので、 わが国では殆ど知られていない。また外国人の政 治活動を特別に禁止する法令は存在しないので、政府としては一般国内法に基きその許容 する最大限の取締りを おこなっている19[19]。 客観的にみて台湾独立運動は適切な指導者を欠き、組織も四分亓裂の状態ある。また将来 「台湾人の台湾」が現地において現実の運動となるときも現在の尐なくとも日本における 台独がその指導権をもつことはないものと一般にみられている20[20]。 (1964 年 1 月, 木村駐台北大使) 這個文書特別重視台灣人(本省人)和日本對 900 萬的台灣人的道義上責任. 今日にしてその信頼を失うことがあれば、我国50年の台湾統治の実績が水泡に帰するの みならず戦後のアジアにおけるもっとも親日的足場を失うことを虞れる次第。…本省人の 17[17] 1963 年 4 月 27 日、「中華民国の政情について」(中国課、日本外務省保存記録、ファイ ル管理番号 0120-2001-05162) 18[18] 1964 年 2 月 18 日、「吉岡参事官の台湾事情に関する説明」(中国課、日本外務省保存記 録、ファイル管理番号 0120-2001-01331) 1963 年 5 月 1 日、「台湾独立運動について」(中国課、日本外務省保存記録、ファイル管理番号 0120-2001-05162) 20[20]日本外務省保存記録、2002 年 12 月公開分、0120-2001-00974
外省人仁对寸石根強不信感对日信頼感上结∽老台湾人仕飽 佐藤總理1975年5月9日的日記上的回顯22[22l。 千葉三郎君中∽℃来℃、早 一○)中国、一○)台湾)方式現夷的℃、極東安全保障)見地屯同ラ人一℃円满解 决c老九望主L↓。問題仕中)方上夕才ミ一少℃、日米C密接抹連貉花雜持L大↓、 中国問題処理方式上L℃『1∽中国1∽D台湾』上、)考之方邡)、現美亿大陸上台 湾仁一∽了○)政榷存在寸石上、)意味办毛小办石方式仕自然℃、○極東仁付石 安全保障)見地6望主L方向上考之石於、国府·中共上屯亿石方式仁強<反对 21[21]日本外務省保存記绿、2002年12月公開分、0120-2001-01331 2222「1975年5月9日」(同上史料)
外省人に対する根強い不信感が対日信頼感と結びつき台湾人は飽くまで台湾人として中国 人に非ずという感情が大きな底流をなしている…台湾が台湾人の手に帰すべきことは歴史 の必然…(外省人的老化和美國的壓力之下)、政治社会体制、すなわち台湾の民主化が不可欠 の要因となり、極めて緩慢ながら進行しているというのが現地の実情である…我方として は本省人の進出を扶け此処に親日勢力の扶植すべき施策が何であるかを考究しこれを実行 に移すことが要請される21[21]。 (5) 1964 年 11 月-1972 年 7 月 佐藤榮作內閣 [政策] 支持跟中華人民共何國的”國交正常化,” 但是中國認為佐藤是個親台的. [兩個中國的意思] 佐藤主張”一中一台”的政策. “台”不是”台灣獨立”的意思.佐藤覺得 把中華人民共和國跟中華民國成為一個中國, 但是以後日本以後要承認中華人民共和國作為 代表中國的正統政府, 否定中華民國的代表性, 那時候不能說中華民國是”中”, 所以說”一 中一台.” 這個想法的背後也有政經分離, 這次把”政”的部分移到中華人民共何國, 但是” 經’的部分可以留在中華民國的上面. 佐藤總理 1975 年 5 月 9 日的日記上的回顧22[22]。 千葉三郎君がやって来て、早く台湾が独立しないかといって来た。小生は反対。中 国の内政に干渉しない事、大 事なのは現実に徹する事、田中内閣の間違ひを又又二つの中 国論でやってはならぬ、現実は施政権の及ばぬ地域は何れにもある、今迄の経緯を大事に するので、 韓国と北朝鮮と、台湾と中国大陸との干係は自ら別の問題と思ふとはっきりい ったら、中国は一つと云ふのは困ると彼は云ふ。二つの中国論は口にしないから一 つの中 国論もやめてくれと云ふ。一つでも二つでもない。一+一は一+一で、二の答へを出すの は早いと、台湾でいっている事を繰り返し主張した。 . 一つの中国、一つの台湾の方式が現実的で、極東安全保障の見地からも同ラインで円満解 決できれば望ましい。問題はやり方とタイミングで、日米で密接な連絡を維持したい 中 国問題処理方式として『1つの中国1つの台湾』という考え方があり、現実に大陸と台 湾に一つづつの政権が存在するという意味からもかかる方式は自然で、か つ極東における 安全保障の見地からも望ましい方向と考えるが、国府・中共ともにかかる方式に強く反対 21[21]日本外務省保存記録、2002 年 12 月公開分、0120-2001-01331 22[22]「1975 年 5 月 9 日」(同上史料)
L℃书9、差当∽℃、v主現実D問題大y得:↓23[23l。 1971年1月22日佐藤首相在議會用”中華人民共和國”的呼稱2424 佐藤內閣的政策:為了保護中華民國的席位,提出雙代表制(中華民國保持安理會的席位), 但是美國反對. 1970年7月16日Henry Alfred Kissinger訪中 1971年尼克森訪中 1971年10月25日聯合國總會,日本還檵續要保持中華民國的席位 日本支持”逆重要事項指定案”(反對59,贊成59,棄權17) Albania案(贊成76,反對35,棄權17) 在聯合國上决定代表權以後,日本確定承認中華人民共和國政府,但是”台灣地位’問題還沒 有解决25251。佐藤把”經’的部分留下給中華民國.但是中華人民共和國強烈的反對. 5.戰後日本外交政策裡頭的”台灣”觀 終戦以後、台湾及U澎湖島D国際法上D所属住、片フラ之久一平和条約书上U心日華条 約仁上∽℃屯想定这九(本↓)C、現在心屯最終的仁仕未確定C五。但L中華民国政 府仕、徙前D、中国D代表上L℃D地域花)老∽今老国際連合仁书℃古認的九℃ 书)、ま大承配花取)消L℃v左↓国书上外交関係左殷定L大国D数花合計寸九任58力 国の多数仁及人℃V石(中共承認国仕45力国2626 (国内事情)同政府住、全中国の政府℃石上、)建前仁基扩老、主大大陸仁家族花残儿 ℃老大多<D将兵D帰鄉花焦石心情屯貉、中国大陸二反攻左行)上)「大陸反攻」② 方針花最高D努力目標上L、准戦時体制花上一℃石大边、独裁的左警察国家上L℃D色 彩強、二上事夷℃石。二)大準戦時体制左L、同政府书大U同政府上共仁大陸 力6渡来L大250万上称世6九石人口亿对L、台湾出身℃全人口狗1100万の内850万在 23[23日本外務省保存記绿、2002年12月公開分、0120-2001-01577) 24241971年1月22日、衆議院本会議議事绿 25[25]福田赳夫『回顧九十年』(岩波書店、1995年) 26261963年4月27日、「中華民国の政情仁∽、℃」(中国髁、日本外務省保存記绿、ブ7才 儿管理番号01202001-05162)
しており、差当つて、いまだ現実の問題たり得ない23[23]。 1971 年 1 月 22 日 佐藤首相在議會用”中華人民共和國”的呼稱24[24] 佐藤內閣的政策: 為了保護中華民國的席位, 提出雙代表制.(中華民國保持安理會的席位), 但是美國反對. 1970 年 7 月 16 日 Henry Alfred Kissinger 訪中 1971 年 尼克森訪中 1971 年 10 月 25 日 聯合國總會, 日本還繼續要保持中華民國的席位 日本支持”逆重要事項指定案”(反對 59, 贊成 59, 棄權 17) Albania 案 (贊成 76, 反對 35, 棄權 17) 在聯合國上決定代表權以後, 日本確定承認中華人民共和國政府, 但是”台灣地位’問題還沒 有解決25[25]。佐藤把”經’的部分留下給中華民國. 但是中華人民共和國強烈的反對. 5. 戰後日本外交政策裡頭的”台灣”觀 終戦以後、台湾及び澎湖島の国際法上の所属は、サンフランシスコ平和条約および日華条 約によっても規定されていないので、現在でも最終的には未確定である。但し中華民国政 府は、従前からの、中国の代表としての地域をひきつづき国際連合においても認められて おり、また承認を取り消していない国および外交関係を設定した国の数も合計すれば 58 カ 国の多数に及んでいる(中共承認国は 45 カ国26[26] (国内事情)同政府は、全中国の政府であるという建前に基ずき、また大陸に家族を残し てきた多くの将兵の帰郷を焦る心情も絡み、中国大陸に反攻を行うという「大陸反攻」の 方針を最高の努力目標とし、準戦時体制をとっているため、独裁的な警察国家としての色 彩が強いことも事実である。このような準戦時体制をし、同政府および同政府と共に大陸 から渡来した 250 万と称せられる人口に対し、台湾出身で全人口約 1100 万の内 850 万を 23[23]日本外務省保存記録、2002 年 12 月公開分、0120-2001-01577) 24[24] 1971 年 1 月 22 日、衆議院本会議議事録 25[25] 福田赳夫『回顧九十年』(岩波書店、1995 年) 26[26] 1963 年 4 月 27 日、「中華民国の政情について」(中国課、日本外務省保存記録、ファイ ル管理番号 0120-2001-05162)
占沙石艳对多数)台湾人D存在)、二D雨者D利害住必于L一致L得夷情二西 五。行政当局D責任百地位仁屯台湾人住極少数採用这九℃↓石仁過寸、政治経浒上) 凳言権仕殆上封心6九大恰好℃态石。一方台湾仕、元来力国D五土年化及分梳治化上)、 產業文化高度二凳達L、无D経浒上、教育上D水準仕相当高<、台湾出身者仕現在C屯 力国亿对L℃好感在抱℃,五。二九D事情、台湾出身者自D郷土D政治仁 对L、自由标凳言榷花与之九石二上花希望L℃八石二上住当然c)、ま上更仁進C 独立上)考之方花凳生L大二上注决L℃不自然左二上℃住左∽。現亿力国亿粉、 ℃名一部台湾人台湾独立左唱之℃书)、一時仕相当活凳仁行動L℃大)℃、中華民国 政府仕、力国仁对L台湾独立運動D藏重取締)花要請L℃v石27[27]。 巷間)一般人仕今般)上U力,于巴士治淡C)、∽方)余計众二之士、之众v、上警戒的 態度在上∽(、石。何九亿L(前配中国青年党及民主社会党D擀部語∽大二上住 东)大胆上屯思力九石於、同時仁限度花大<心得大抽象論)嫌↓、屯百。二九の言説住 冬)背後仁当国亿住一般的自由特仁言論D自由バ無<、基本的人榷必式L尊重含九℃ 书护、高极官吏腐敗L℃书)、国民党一党独裁C杨石二上州示唆志丸℃书石点仁興 味百上思力九石28[28l。 大陸人上台湾人D関係(①)国府上L℃住、台湾人抱老二、民主化仁向力岂石在得左、 事熊仁在)∽○态石。LL表面的仁住未主)現九℃老℃左↓。台湾仁仕将官於1800 人石上力九(石、台湾人D将校仕少佐心ま)C海石。(2)台湾人花国民党員七L上 )上、慟老办寸注非常仁強。L力L「党大会」左仁出席L℃:石上入党L大台湾人 住决L℃誇)左屯∽(c住在<、L方已左得式入党L大D龙上V八説明花L℃五。(3) 呉三連台湾市長(台湾人間仁声望石))長男政治犯℃火燒島仁流刑仁参∽℃v大 昨年积放这九大。(4)本年4月地方選举邡书二标力九石予定℃卤石°、飞D際)台北市長選 举注目这九石29[29l。 矢次台湾仁住私一番最初仁行∽大一人在九。…名九屯)一○住、这上在在、 )上老仁総锍仗必扩私D手花握∽℃『亿办气九大二上℃、私亿言残寸上住』 必式上V、)九尤。尤方、「総锍圈下、無遠慮二申L上于主寸於、台湾D民聚花上可爱 i∽C大老大 「、君仕V仁<v二上在)、名九住本音力」∽(力 27[27]1963年4月27日、「中華民国D政情亿∽V℃」(中国髁、日本外務省保存記绿、ブ了 管理番号0120-2001-05162) 28[28]昭和31年10月24日、在中華民国特命全榷大使堀内谦介彐)外務大臣重光葵宛「蒋稔 統D意見提出上心寸仁对寸石当地言論界D反響仁闋寸石件」(「中華民国(国民政府)小内政並 U心仁国情糝統(副総統)闋係)日本外務省保存記绿、Aˉ.4.1.29、刂一儿番号A0227) 29[29]1964年2月18日、「吉岡参事官の台湾事情仁闋寸石脱明」(中国髁、日本外務省保存記 绿、7了才ル管理番号0120-2001-01331)
占める絶対多数の台湾人の存在があり、この両者の利害は必ずしも一致し得ない実情にあ る。行政当局の責任ある地位にも台湾人は極尐数採用されているに過ぎず、政治経済上の 発言権は殆ど封じられた恰好である。一 方台湾は、元来わが国の亓十年に及ぶ統治により、 産業文化が高度に発達し、その経済上、教育上の水準は相当高く、台湾出身者は現在でも わが国に対して好感 を抱いている。これらの事情から、台湾出身者が自らの郷土の政治に 対し、自由な発言権を与えられることを希望していることは当然であり、また更に進んで 独 立という考え方を発生したことは決して不自然なことではなかった。現にわが国におい ても一部台湾人が台湾独立を唱えており、一時は相当活発に行動していたので、中華民国 政府は、わが国に対し台湾独立運動の厳重な取締りを要請している27[27]。 巷間の一般人は今般のよびかけには冷淡であり、うっかり余計なことはいえないと警戒的 態度をとっている。何れにしても前記中国青年党及び民主社会党の幹部が語ったことはか なり大胆とも思われるが、同時に限度をよく心得た抽象論の嫌いもある。これらの言説は その背後に当国には一般的自由特に言論の自由が無く、基本的人権が必ずしも尊重されて おらず、高級官吏が腐敗しており、国民党が一党独裁であることが示唆されておる点に興 味があると思われる28[28]。 大陸人と台湾人の関係 (1)国府としては、台湾人も抱きこみ、民主化に向わざるを得ない 事態になりつつある。しかし表面的には未だあまり現れてきていない。台湾には将官が 1800 人いるといわれているが、台湾人の将校は尐佐どまりである。(2)台湾人を国民党員にしよ うという働きかけは非常に強い。しかし「党大会」などに出席してみると入党した台湾人 は決して誇りをもってではなく、むしろ已むを得ず入党したのだという説明をしている。(3) 呉三連台湾市長(台湾人間に声望がある)の長男が政治犯で火焼島に流刑になっていたが 昨年釈放された。(4)本年 4 月地方選挙がおこなわれる予定であるが、その際の台北市長選 挙が注目される29[29]。 矢次 台湾には私が一番最初に行った一人なんだ。…それからもう一つは、さよならをい うときに総統は必ず私の手を握って『なにか気づいたことで、私に言い残すことはないか』 必ずというんだ。だから、「総統閣下、無遠慮に申し上げますが、台湾の民衆をもっと可愛 がっていただきたい」 「ああ、君はいいにくいことをいうが、それは本音だね」っていわ 27[27] 1963 年 4 月 27 日、「中華民国の政情について」(中国課、日本外務省保存記録、ファイ ル管理番号 0120-2001-05162) 28[28] 昭和 31 年 10 月 24 日、在中華民国特命全権大使堀内謙介ヨリ外務大臣重光葵宛「蒋総 統の意見提出よびかけに対する当地言論界の反響に関する件」(「中華 民国(国民政府)」内政並 びに国情 総統(副総統)関係) 日本外務省保存記録、A´.4.1.2-9、リール番号A´0227) 29[29] 1964 年 2 月 18 日、「吉岡参事官の台湾事情に関する説明」(中国課、日本外務省保存記 録、ファイル管理番号 0120-2001-01331)